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法隆寺の真言密教は、既に空海に依る真言宗開宗以前に伝来していたとする伝承があります。それは、養老年中の善無畏三蔵(伝持八租の1人で印度より中国へ密教を伝えた人)の来朝に依り、法隆寺の大衆が密法の奥旨を伝授されたとしています。よって、善無畏三蔵をもって法隆寺真言の租と伝えています。
中世に至ると、法隆寺内の密教化は早いテンポで進められ、現在に多くの聖教類や法具類を伝えています。とくに、仁和寺僧大蔵卿「遍(澄遍・長遍・賢光ともいう)によって法隆寺の密教は本格的となりました。この「遍は仁和寺を退去して東山の白毫律院に隠棲して持戒の僧となり、彼が密教に博達であることを聞いた法隆寺の大衆は法隆寺に迎え、師に従って密教を大いに修学したのです。暦応2年(1339)12月6日には、聖霊院で大阿闇梨となって伝法潅頂を行っています。「遍の法統は、仁和寺の行遍より南部の大法を受け、小野流は小野曼茶羅寺の仁梅の正統で、広沢流はその一派の西院流を伝授されたものであります。
このように法隆寺の真言は、「遍をもってその中興とし、その後は弟子である宝光院実乗・印実・慶懐等によって受け継がれ、ついに永和年間(1275〜8)に実乗の遺願であった護摩堂の建立が印実によって実現しました。これより当寺における真言密教が護摩堂を中心に展開されることになりましたが、残念なことに宝暦14年(1764)4月14日にこの護摩堂および聖天堂が焼失しました。しかし、幸いにも本尊及び法具類などは類焼をまぬがれています。
現在の護摩堂は大工棟梁長谷川高能の発願勧進によって明和9年(1772)に再建されたもの(平成元年修理完了)で、堂内には本尊の不動明王及び二童子像(重文)、弘法大師坐像(重文)、塑造聖徳太子坐像が安置されています。
護摩祈願法要は平成元年より復興され、毎月28日(不動明王縁日)に行われ、当日は信者の方々が護摩木に祈願文をよせてお参りされています。 |